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zoom RSS 「社会問題考察の糸口」

<<   作成日時 : 2005/06/25 04:51   >>

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サウンド・オブ・スタンダードは今日も快調?
とりあえず同時進行中の曲が三つ。
「to you」「I stand alone」「Thinkin of」と、近いうちにご披露したいと思います。
さて、今日も過去のコラムから。

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◆社会問題考察の糸口◆
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 皆さんにとっての社会問題は何ですか。問題視するときに例えばパブリック面とパーソナル面で分けたり、そういう分析もやると見えてくることがあるけど、社会問題ってどうやって皆さん認識しますか。そう、社会問題がご専門(にしたい)の私がどうやって社会問題を見つけるか、方法は3つある。
 まず一つは皆さんもご想像の通り、新聞・テレビ。報道メディアってところかな。そうねえ、テレビは小学校に行く前から月9は必ず見ていたけど、意識的に社会問題に触れられるようになったのは、・・・ないかも(笑)。真面目な番組なんてすっ飛ばして見ていたはずなのに、いつの間にかドキュメンタリー番組とかを意図的に見るようになったし、新聞も所謂「父親がトイレに持っていくから臭くて読む気がしない」という境遇だったのだが、少なくとも朝の情報番組で各紙の記事は得ていたし、
何より90年代というものが私にとって面白い“物語”だったんだと思う。
 政治とか経済とかはそういう感じもあったけど、何より思春期とかって、性社会や死生観みたいなこととかに関心がいったでしょう。どっかの政治家と宅配業者の賄賂とかって、話としては面白いけど、リアルなカンジ、自分にフィードバックする観がなかった。だけど阪神大震災、オウム事件、メディアから発せられるメッセージの中には死というものが生身に感じるものがあったんだろうな。
 だが、これには少なくとも皆さんと同じだった頃と違った今がある。つまり、皆さんはメディアを読み解くものがない。社会問題視するようにメディアは提起したわけではないかもしれないし、意図的かもしれないが、それを感じるのは視聴者である我々であるわけで。私もただ「これは社会問題なんだ」という認識の「こびり付け」がなされていたのではないかと思う。果たしてメディアリテラシーが私に備わっているか、それは疑問であるし、皆さんにもそういう力があるかないかはあると思うが、それをクリアしてるのとクリアしないのでは明らかな壁があると思う。

 二つめは社会学。社会問題を専門にしている研究所は沢山あったり、社会問題視する社会を考察したり、先ほど挙げたメディアを研究したりもあるのだが、社会提起としての学問と考えてもらえば、そこから社会問題を抽出することも出来るのではないだろうか。
 まあ、これはこれからの私のコラムの向上、言っちゃえば私が本気で社会学に目覚めない限りは無理だけど、出来るだけがんばれば、皆さんにも大きく提起することが出来るでしょうから、後日に廻しましょう。

 三つめ、これは最もパーソナル面となるとこ、つまり個人。社会問題には少なくとも当事者と非当事者、被害者と加害者と第三者。まあ抱えている問題、抱えていない問題ってのは個々人違うし、社会問題というのはパブリックであるのに、それを感じるのは当事者・非当事者間に観方が相違して、確実な“囲い”がないのが現状ではないだろうか。
 少年犯罪が横行している社会に関心があったのは少年期だけで、現在は労働社会だとか、同じ学生間での問題にのみに固執する。中年になればそこで、また老人になればそこで問題を意識する、認識する機会の違いが生じ、対応も違うだろう。
 個人ということだから、自己追求型か他人依存型で画策するか、やはり個人でのコミュニケーション等のミクロ的学習認識が伴ってくる。私は自己追及した時期はあっても、それを還元して他人依存型にシフトし、とりあえず研究はしているのだが・・・。私個人で誰も全ての社会問題を抱きかかえようとしているわけでもないし、物理的に出来ないので、まあこのコラムが私という個人から皆さん個々人への提起、軽いお喋りと考えてもらっていいだろう。社会問題を考察する糸口は皆さん自身の脳みその中にあるのではないかな。

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☆難しいことを書いていますが、簡単に言うと、認識論である。
 社会問題は、あくまでも問題視する個人の認識であり、それを顕在化することは困難であるということだろう。
 社会問題は色々定義されてきた。勿論、社会学領域でも。最近思うことだけど、やはり問題視する“視点”が必要なのだろうと感じる。
♪社会問題が社会的な性格を持つものと考える場合、その社会的という言葉の含意は、3通りある。
 @社会が問題と措定したもの。
 A社会が産出したもの。
 B社会が制御をめざすもの。

 私の現在の見解で言うと、@のためには、Aであることを顕在化し、Bと現実を直視し、行動することではないだろうか。社会問題視する動きは確実に存在する。それがメディアが作り出した架空現実だとしても、それが社会産出物であることを、文章であれデータであれ、目に見える形にすることで、それとどう付き合っていくかを考えるべきではなかろうか。
 私の社会責任論の骨格「誰の責任なのか?」ということを考慮すると、即ち其れは、
 「社会問題は誰の責任なのか?」
ということになる。誰のせいですか。皆さんはどう考えますか。それでは、また。

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